
懐疑主義者もひとつの信念の上に、疑うことを疑わぬという信念の上に立つものである。
芥川龍之介
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この名言について
- 意味の要約
疑うこと自体も、確固たる信念であるという本質。
- 背景・意図
この言葉は、私たちが何かを「疑う」という行為の奥深さを教えてくれます。 一見すると、疑うことは「信じないこと」のようですが、芥川龍之介は、その「疑う」という行為そのものが、実は「疑うことを疑わない」という、ある種の強い信念に基づいていると指摘しています。 つまり、私たちは無意識のうちに「疑うこと」を正しいと信じ、その姿勢を貫いているのかもしれません。 これは、人間が何かを判断する際に、必ず何らかの基準や価値観を持っていることを示唆しています。 たとえそれが「何事も鵜呑みにしない」という姿勢であっても、それはその人なりの「信じる道」なのです。 この言葉は、自分の考え方や他人の意見を深く見つめ直すきっかけを与えてくれます。 私たちが「正しい」と信じていること、あるいは「疑わしい」と感じていることの根底には、どんな「信念」が隠されているのでしょうか。 そう考えることで、物事を多角的に捉える視野が広がるでしょう。
- 現代での活かし方
この言葉は、私たちが何かを決めかねている時や、他人の意見に流されそうになった時に、そっと思い出したいヒントになります。 例えば、新しい情報に触れた時、「本当にそうなのかな?」と疑問に思うことは、決して悪いことではありません。 むしろ、その「疑う」という姿勢自体が、あなた自身の「確かなものを見極めたい」という信念の表れなのです。 だから、自分の直感や疑問を大切にしてください。 「疑うこと」は、ただ否定するのではなく、より深く理解しようとする前向きな一歩でもあります。 もし、誰かの意見に「たしかに」と納得できない時があっても、それはあなたが自分なりの「信じる軸」を持っている証拠。 無理に合わせる必要はありません。 自分の心に正直に、じっくりと向き合う時間を持つことで、あなたらしい答えが見つかるはずです。
- 起源歴史上の発言
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